- 護身武道のホームページをたまに見るのですが、ホームページだけでは、空手なのか拳法なのか、今ひとつ分かりにくいです。(代表者の武道歴などを含め)また、合気道や空手、剣道や柔道などの個別武術をまとめて「武道」と呼びませんか?護身武道のヘ゛ースとなっているものは何でしょうか?
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確かに、明確にしていません。柔道、ボクシング、拳法と学んできました。これといって、語るほどのものはありません。しかし、明確な歴史がなければ分からないという人にわかるように説明することは難しいと思います。ルーツや戦績が、今を作っていると思う方にはわからないと思います。また理解しようと思わないのでしょうか。歴史にこだわり、そんなこだわりにうずもれてしまうのです。指導者の過去など、所詮過去なのです、今、何をなし何に向かっているのかが大切なのです。
自分が今学んでいるものに比べれば、他はすべてに疑問が生まれるのです。それが、今学んでいるものに対する証なのだと思います。他をもって肯定したいのでしょう。
こんなことがよく言われます「比較した時点で、負けている。」・・信じることです。又学ぶことです。比較することではないのです。
学ぶという姿勢は、失敗や間違いを好い経験に変えてくれると言います。自分が歩んでいることに自信と誇りを持つことです、比べてり否定することではありませんよね?
ホームページは、内に向かってのメセージが強いので、考えていくべき点ではあると思います。これからもいえることですが、何を伝え、何をどのように考えていくべきかさらに学んでいかなければならないことが山ほどあります。 今あるものを思いを乗せず伝えることは、学ぼうとしている人に対して背信行為だと考えます。
・歴史のある武道といわれているものは、歴史を伝えることに時間を費やしているのではないでしょうか。温故知新では、図れない行動や思想が生まれているのです。・
武道家の一人一人が違った理念を持つといわれている昨今自分で感じることが大切だと思います。
信じること、学ぶことです。人の話から理解できるようなものなど究極あり得ないのです。
友に、信じてつづける事。自分が学んでいることでこんな感動を得た等の話題を話してもらいたいですね。
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- 【人からの裏切りに等に対する憎しみを抱い時、冷静さを保ち日常を過ごすにはどうしたらよいのか。またこれからもその相手と付き合う場合には、どう対応するべきでしょうか。】
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金銭トラブルの場合として、裏切りの認識は被害者側からの考え方と言える場合が多い。欲望は、止まらない、止められない、さらにさらにと膨らみ転がっていくものだと思う、そのストッパーとして理性があるのだろう。
トラブルとなる要因、原点に欲望という「思い」があったのではないだろうか。例えばこれを行えば、何か次に繋がる、思った以上の利益になる等思わなかったのだろうか。世間はそれほど甘くはないよと分かってはいても、「いやそんなことが有るはずがない」と自分なりの結論を出してしまうものだと思う。
人を信じていないつもりでいても、自分を信じてしまう傾向があるのだろう。ものには、相場があり妥当なところがある。自分をしっかりと見つめ、相手を見極めることが大切で、結果騙されてしまったことは、その点が欠落していたのではないだろうか。だれでも、生活を守りたい、家族等を守りたいと守るべきものは大きくなる、大きな仕事を請け負う以上は何か有れば、不況の時代死活問題になっていく、その点を強く認識すべきである。
裏切られた(騙された)ことは、どこかに自分自身にも問題点があったのだろう。その点を考えれば冷静になることは出来るのではないだろうか。
冷静に日常を過ごすことが出来るか否かは、気の持ちようだろう。これもまた勉強とあきらめか、法的手段をとって決着をさせるか。
しかし、生き抜いた先には過ぎ去りし日々を想い、「人生すてたものではないと思える」ときが必ずあるものです。 その後の付き合いは、その人が自分にとっての重要性によると思う、気持ちを棄てて、利益をとるかになるのだろう。
割り切ることも生活、生きるための方法論になることもある、気持ちの持ちようにより、どのようにも変化していくものだ、自分がどうあるべきか、「為すべきか、為さざるべきか」それが問題だ。それが今後の自分への生への執着なのだろう。 |
- 【100年に一度の大不況と言われています。就職の氷河期時代ですが、これから就職しようとしている若者に対してのエールなどは頂けますでしょうか。また、舘長の時代と違うところなどがありましたらお教え下さい。
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※人は、その年代にやるべきことをやる。その時その時は、何とはなしに過ごしてしまう一瞬一瞬なのだけれど、それらの積み重ねが今を創っていると云える。だれも、らくで愉しく幸せに過ごしたいと思っているのです。不況という社会現象の中、我々は惑わされ混迷し絶望感を抱いています。そんな若者の社会現象が、犯罪等を正当化してしまっているのだろう。
就職の氷河期と云われているが、どのような時代でも、就職は人生の一大行事なのです。ある意味では、自分の人生を決めてしまう場合が多いからです。仕事としてやりたいこと、一生やれそうな仕事、自分に適した仕事等さまざまあります、しかし、結果を他人のせいにしてしまう場合が多くみられる(一部かもしれません)現在の若者にとって安易さが顔をみせるのではないだろうか。(私的見解です、若者批判では有りません。)
就職し勤めることは、過激に云えば死を決めてしまうと云っても過言ではないのだろう。しかるに、生き甲斐となる仕事を選びその時その時やるべきことをやる、金儲けをして金持ちなる、会社で出世する等ではないと思っています。所詮は定年という壁でそれらは終わりを迎えるのです。その時代を如何に充実したときを過ごしたかです。評価は、他がするものです、自分がいかに納得し歩んで来た道を誇れるものとすることができるかです。苦しんで、悩んでみつけた就職や道は、自分に大いなる希望とプライドを与えることだろう。苦しめ、安易にながれることなかれ。「人や社会に左右されるな。」・・・誰も自分以上に自分の理解者はいない!・・・
私の時代の就職は、恵まれた環境になく生活し食べるための就職でした。しかし、就職しても多くが「可能性を探し、求めて」より良い未来を掴みとるのだといわんばかりに模索し続けていました。人と同じ道、同じ考え方では生きていけない人達(団塊の世代)の集まりだったようです。
定年を迎えた現在、企業の中でその時代その時代を懸命にもがき苦しんで過ごしてきたのだな〜との思いを強くしています。
色々な人に支えられ、勇気をもらい、助けられ現在まで武道を続けてこられたことに感謝をしています。『何かを為したい、成し遂げたい』との思いがいまを支えていると思っています。・・・・・基盤なくして、自由なし・・・・・
☆☆☆信じる道をみつけよう、あなたがまだ知らない世界があるのかもしれません!!
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